クオリアと意識、質の科学の概略*クオリアと意識など4*その266*知性,論理,思考,意味,イメージ,本質,質,味わい,価値,心,意識,生物,社会,国家,自然,世界,宇宙,などの研究*イメージ思考でいこう* 意識とクオリア、質の科学の概略(手をいれる) 意識とは何か 意識の抽象的定義 人間の中で、体験や言動、脳の活動内容などを(意識し)味わう性質(機能・働き・状態) 意識の実体・実態 意識とはなんでしょうか? 意識というのは、物質そのものでないことは確かです。 では、いったい何なのでしょうか? 今現在の人類の知識の中で、その答えをだすならば、意識とは、エネルギーに伴われる(伴う)波動の世界である、という解答しかないように思えます。 意識というのは、一体性・全体性を形づくっており、意識は無数の(数多くの)波動パターンをとることができ、時間とともにその波動パターンが変化していく、それが意識である、という答えしか探しだせません。 まず、なんらかのエネルギー(なんらかの素粒子のようなもの、物質、なども含めて)によるもので、それらが組織されたもの、あるいは単独のもので、一体性・全体性を形づくっている意識の器、というものがあって、それがさまざまな波動パターンをとる。 その波動パターン(変化していく波動パターン)が意識内容であり、その意識内容の質がクオリアであって、そこに意識が生じる。 それらをあわせて、普通、意識と呼んでいるのではないか。 そういう答えです。 今のところそれしかなさそうです。 物質もエネルギーの一形態ですが、波動性・流動性が低すぎるので、まずは、エネルギーという、より波動性・流動性の高い形態のものに着目してみるのです(なんらかの素粒子のようなもの、物質、などもその構成要素として含んでいるのならば含めて)。 その上で、物質の組織では、物質的には一体性・全体性を形づくれますが、波動的には、一体性・全体性を形づくることはできないという事実から、意識というものは、上に述べたようなもの・存在なのだろう、という結論に至るわけです。 脳の中でもっとも波動性の高い電子を考慮しても、そういう結論がでます。 それ以外にはないように思われます。 そういった意識、そういった意識の器(ハードウェア)=意識の主体、が脳になんらかの在り方で存在する、ということになるでしょう。 注)質の科学において、意識の主体という用語はハードウェア以外の、意識、という意味に用いることもあります。質の科学については私のブログに記してあります。 そして、その意識の器に、神経細胞たちの活動によって、情報が送り込まれ、その意識の器の中で、意識と意識内容(クオリアも含めて。クオリア=意識内容の質)が生じる、ということになるのでしょう。 脳での局所的な情報処理とその統合 そこにおいて、神経細胞たちの活動の局所性によるバラバラな情報は、非局所的な一本化した全体像としての情報へとなんらかに統合されるのは確かである。 そこの変換の在り方として、可能性の高いものをひとつ挙げてみよう。 意識の器は、脳全体あるいは脳の一部にあるか、(脳の中のどこかにあるか)、脳を覆っているか、脳と重なっているか、なんらかに脳と連絡している在り方をしているか、それ以外の在り方か、それらのどれかである。 脳がなんらかの対象についての情報処理をなすと、それら分散処理(空間的にも。時間的にもいくらかのズレをもって)している脳細胞たちの活動によって意識の器になんらかのエネルギーたちの変動たちが伝わる。 つまり局所処理たちがなされたままで統合されていないバラバラな情報たちが意識の器に入ると、自然に統合され、一体化した全体像としての情報となる。 それが正しいとすると、そうなるのは、脳の機能・規格・性質・特性は、意識の器のそれに基づいて設計されつくられているからである、といえる。 それを理解するには; 池の水面の全体に数多くの砂粒をバラバラに落とすと、水面に数多くの波源が生じ、それらが自然に干渉しあい合成されて複雑な波紋(波動パターン)が生じ、それが時間とともに変化していく、というモデルが非常に参考になるだろう。 その波紋とその変化が、一体化された全体像としての意識内容、というわけである。 (以上、可能性のあるものをひとつ挙げただけであって、未検証です) (時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません) このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。 このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。 それらの無断利用を禁じます。 宇宙人がでました(?) |